Biography
私は、幼いときから、考えていました。
「なぜ私は生まれたのか?」
「私は生きていてもよいのだろうか?」と。
存在する理由や価値がなければ、自分の存在は許されないのではないかと、私は感じていたのです。
幼い私は、この世界(幼い世界観での、自分の周囲)のどこに自分の居場所があるのかと探し、「そもそもこの世界はどうなっているのか?」を空想しました。それは、古代ギリシアの哲学者たちが、宇宙や自然の幻現象を説明する理論を編み出した過程にも似ていたし、星座や物事の起源が、神話や昔話として想像され語られる過程にも似ていました。
私の精神世界の旅はこうして始まりました。成長するにしたがって、学校で科学的な知識を得ましたが、それは私の空想を妨げるどころか、むしろ空想の材料となりました。私は童話やSFや異世界への冒険譚など、幻想的な物語を好んで読み、イマジネーションはますます育まれました。学校から帰ったら、想像の絵を描く。本やマンガを読み、アニメーションを見、その絵を描く。それが私の日常でした。
科学でどんなに探究しても、「世界とはどういうものか?」という問いの答えが得られるようには、私には思えませんでした。目の前の謎に人間の科学理論が届くや否や、新しい謎が生まれてしまいます。人間の思考力よりも、速く、遠く、宇宙は広がってしまうようでした。
この世界を一気に理解するのは、科学ではなく、哲学ではないかと考え、私は大学と大学院で哲学を専攻しました。けれども、先人の哲学を研究することでは、私は満足できませんでした。
絵を描くことは、自然に続けていました。私にとって、絵は習ったり学校で学んだりするより、身近で習慣的なものでした。独学で描いたイラストレーションが出版社の目に留まり、私はイラストレーターとしてスタートしました。物語に挿絵や表紙をつける作業は、子どもの頃からの習慣にとても近く、私にとって楽しいものでした。
やがて私は、他者の物語を核として自分の想像を膨らませて描くのではなく、自らのインスピレーションを、もっとそのまま絵として表現したいと熱望するようになりました。私の内的世界には、様々なイメージが雲のように浮遊しています。そこに、稲妻のようにインスピレーションが閃くと、雲が嵐のように動き、形を成したり、凝固したり、沈殿したりします。それらをとらえ、外的世界に表出するには、莫大なエネルギーを費やします。それはまるで命が燃えるような感覚です。私は仕事のためではなく自由に描いた絵を、個展やグループ展で発表するようになりました。
私は想像の世界を描き、そこに少女を配置し、役割を与えています。少女たちは肖像画のように単にポーズを取る「カワイイ子」ではなく、何らかの行動をしています。
絵の中の世界を動かすこと、それが少女たちの存在理由です。子どもの頃からほしかった「自分がいてもよいのだという感覚」を、私は少女たちに与えています。
日本のマンガやアニメーションに囲まれて育ったので、私がそれらに影響を受けるのは自然でした。マンガやアニメーションのキャラクターのような少女たちを、私は油彩でリアルに表現しています。私の作品は、子どもたちにも親しみやすいでしょう。みなさんは、"kawaii" 少女たちの不思議な実在感に、東洋と西洋の融和を見て取ることができるのではないでしょうか。
自分のルーツとして、古来の日本文化も大切にしています。
少女たちの髪は白いことが多いです。それは、日本の能に着想を得ています。能においては、神や、鬼や、永い年月を経て人間を超える者となった人物に、白い鬘が用いられます。また、白以外の髪色の場合、アニメーションのキャラクターのように、鮮やかな赤やピンクなど、自由な色であることも多いです。
伝統的絵画に少女を配置することもあります。
特に浮世絵の大胆な構図や平面構成的な色彩や、思い切った人物のポーズは、ジャポニズムとして世界の美術界に衝撃を与えました。
浮世絵は江戸時代のイラストレーションであり、その背後に文学や芝居、広告宣伝活動が広がっています。それを「本歌取り」することで、現代では不適切な表現とされるものも、よい意味で突拍子もない構図やポーズとして、より深い世界感へと飛躍させることができると思います。
そのようにして描かれた少女たちは、私の代弁者であり、私が自問自答してきた問いをみなさんへ問いかけます。
「あなたは、何者ですか?」
「宇宙の中で、あなたはどのような存在なのですか?」
「この宇宙という機構の中で、あなたはどこに位置し、どのような働きをしているのですか?」
そう問われ、みなさんは揺り動かされるでしょうか? ただ生きるのではなく、自分と向き合わねばならないのか?と。
それとも、見向きもしないでしょうか? 頭でっかちのスカした発言だと。
ただ生きていても、人生は続きます。そんな問いやその答えは、人間にとって「それがなければ生きられない」というわけではないでしょう。
人は生きているということだけで、役割などなくとも、存在価値があるのかもしれません。そのような思い、あるいは願いから、私は少女のみや、顔のみを描くこともあります。
私の精神世界の旅は続きます。
国境・文化・世代・時代を越え、アートを通し、この問いを問うことと問わないことを、みなさんとポジティブに共有できればと私は思っています。
そんなことで、何かの役に立てるでしょうか? 誰かの力になれるでしょうか? そういう画家になりたいです。